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2011年07月26日

紅花 NO1

6世紀にはすでに中国から日本に伝わっていたとされる紅花。

紅花は昔、末摘花(すえつむはな)、紅藍、久礼奈為(くれない)、呉藍(くれあい)などと

呼ばれておりました。

呉藍というのは中国の呉の国から伝わった染料という意味だそうです。

古代、禁色の最高位に置かれ、古典文学にも多く登場し、平安朝の宮廷では

雲上人の晴着を染め、武人の世に移っては直垂の色をかざり、室町から江戸にかけては

辻が花や友禅に花色を与え、京紅、京染めなどと呼ばれもてはやされました。

そして顔料にも、薬用にもと、紅花全盛の江戸時代がやってきました。

この山形、最上川流域で なぜ紅花が・・・・・

気候・土壌が決定的な要因ではなさそうでした。

むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが

活躍したことが、産地の拡大に拡がったようです。

紅花商人たちが、山形から紅餅を京へ出荷し、京からの帰り荷として古着のパーツを

中心とした日用品を持ち帰り、各地に広く商ったようです。

現在でも 最上川流域の地町村には、紅花商人たちによって京から持ち帰られた

江戸時代の雛人形(享保雛・古今雛など)がたくさんザ残存し、「山形雛のみち」や「庄内雛の

みち」といわれるほど雛祭りが盛んに行われているそうです。

一方、紅花から採れる口紅の紅は生花の0・3%程度と少なく、江戸時代には「紅一匁(もんめ)

金一匁」と言われるほど高価なものだったため、紅はごく一部の裕福な人々しか使用できず

紅花を摘む農家の娘たちには無縁のものだったようです。

明治時代になると 中国から盛んに輸入されるようになり、また化学染料が普及したことにより

山形の紅花は衰退し明治10年ころにはほとんど壊滅したといわれております。

ところが 戦後、偶然に農家の納屋から昔の種子がみつかり、また山形県の紅花栽培が

復興されました。

この地方には「半夏(はんげ)一つ咲き」という言葉があり、半夏というのは夏至より11日目の

日を指し、この頃になると、必ず1集団に1つの紅花が咲くといいます。

先兵として季節を偵察にくるのか、不思議な現象なのだそうです。

最上紅花は清明の日(4月5日)に種をまき、半夏(7月2日)に摘み取るのだそうです。

経験に学び経験に生きてきた先人の教えなのだそうです。

うっすらと空が白みかけると、早々に花摘みが始まります。乾いてからでは良質の花が

得られないのと、葉のトゲが硬くなり手に痛く摘みにくくなるのです。

私も挑戦してきました。